「だったらお前が描け」

小説家になろう』作品がメディアミックス化されることが珍しくなくなってしばらく経つ。その中には悪評高い作品もあり、実際読んでみると何とも言えない気持ちにさせられることも多い。そういう時、必ず現れる人間がいる。「だったらお前が描け」マン(ウーマン)である。「つまらないと思うなら、お前はもっと面白いものが描けるんだよな?」という問いを投げつけてくる連中である。これに対しての答えは「無理」である。

 

そもそも「なろう」で主流となっていた「異世界転生モノ」は、その主題が小説の主流とは全く異なると考えている。そして、小説の連載というのは0から始めてささーっとできるほど楽な作業ではない。それが「なろう」という気兼ねないフィールドであっても。

まず、「異世界転生モノ」の主題がどう違うかについて自分の意見を述べておきたい。
現代において、避けられない問題の渦中で心の機微を描く小説というのは、何ら珍しいものでもない。また、ここで言う「避けられない問題」というのは、想像出来るがわが身には起こらないだろう、という境界線で設定されているように見える。例えば『舞姫』『こころ』といった国語の教科書に載るような日本文学がこの類である。特に後者では、人によっては「考え過ぎではないか」としか感じられないことが、ある人物の心を苛む問題として描かれている。
自分の中では、これが現代でも日本の小説における主流になっていると思っている。つまり、現実の中に多少の非現実性を盛り込み、生々しい人間の「生」を描くというものだ。まあどのような話であれ、登場人物の動きには一定の動機が必要なのは確かだろうから、この点については間違ってはいない...はず。

一方で「異世界転生モノ」は、異世界という非現実の中に現実世界で生きてきた主人公を投入している。この構図は先ほど述べた「現実の話」とは対照的だ。「現実の話」が"どうしようもない中でもがく人間を描く"話だとすれば、こちらは"どうしようもないと思われている中で、主人公が能力や知識を活かして問題を解決する"話である。実際は例外も数多く存在するのだが、インターネット上で謗られているような作品はだいたいこのように見える。この時点で、問題解決の可否という物語の主軸をどう扱うかについて異なることがわかると思う。


また、一応は下手の横好きで小説(文字通り「説にすらならない駄文」)を描いている身としては、「異世界転生モノ」には下記のような特徴があると感じる。
・高確率で主観(語り部)となる主人公。彼(彼女)に現実世界の常識を持たせるだけで、心情や風景の表現がしやすくなる。「非現実」を現実の語彙で表現することは、その逆と比べれば遥かに簡単
・「異世界の常識」に異を唱えさせることで、物語における問題提起がしやすくなる。特に「現代の技術や知識で問題を解決する」タイプの物語では、これが物語の根幹になりやすい
異世界なので、描くのに専門性の高い知識や、それを得るための参考文献が(あまり)必要ない。ただ、基本的な常識とか知識がないと体裁を整えるのは無理。これはどんな文章でも同じ
・上記の要素から、主人公が作者自身を投影した人物或いは作者自身の理想像になりやすいというデメリットがある
・感情の機微や論理性を考慮して描く「現実の話」と比較すると、問題解決の立役者になるであろう主人公自身の動きによって物語が左右されてしまう
これらの要素から「描きやすい」「判りやすい」ことは確かなのだが、作品への没入感や感情移入のしやすさが損なわれる以上評価されうる完成度のものを仕上げるのは難しいように思える。そもそもまとまった文章量を描き続けること自体難しいとは思うが。

 

まとまる気がしないので結語
・バカにされがちな「異世界転生モノ」だけど、描くのは普通に難しいと思う。ただ、心の機微が〜とかそういう作品より簡単なのは事実。衆目を集めやすく、判りやすいのも事実。
俺はそもそも何万字も描けないので凄いな〜と思う。数年前に2万字描いて心が折れたことならある。
・読んでも文法構造の崩れとか筋書きの整合性とかそういうレベルでしか巧拙がわからないので、作者にとってツッコミを入れられるのは大事なこと。バカにすれば良いというものでもないけど、見られないよりはマシ...なのかな?そこはわからないっすね。
おわり

 

追記(8/22 14:39):誤字を修正しました。まだあると思います(ガバ)