自分語り3

僕は小さい時から勉強とゲームばかりしていました。理由は簡単で、「勉強とゲームなら身体が弱い自分でも他人に勝てるのではないか」と思ったからです。昔の僕は、今と違って人一倍負けず嫌いでした。「勝てない努力はただの無駄」そう思っていました。
勝てそうな分野に絞って努力するという目論見は、途中までは上手くいきました。周りがワイワイ対戦をしている中で黙々と勉強をし、ゲームはといえばトレーニングモードやタイムアタックモードばかり回していました。楽しいとは微塵も思いませんでしたが、勝つためと思えば苦ではありませんでした。
ただ、「勝つ」ことによる心の安寧は、そう長くは続きませんでした。

友人の家でスマブラの対戦をした時、僕は驚きました。スマートボムが落ちてきたからです。「対戦ゲームやレースゲームは運要素を極力排するために全オプションオフが当然」本気でそう思っていた当時の僕にとって、これは衝撃であり、同時に許しがたいことでもありました。「楽しい」=「勝つ」ことであった僕には運負けの可能性を許容できなかったのです。
その後については、ご想像にお任せします。決してろくなことにはならなかった、とだけ。

勉強はといえば、元々の虚弱体質に加えて最低限の運動しかしていなかったため、身体が保ちませんでした。また我武者羅にやっていただけなのが災いして周りに抜かされていき、次第にやる気と心の余裕を失っていきました。そして高校に入ると、周りは自分より上の人間ばかりで闘争心は虚無と化しました。

ここに至って、僕は自分の過ちに気付きました。
1つ。「身体が弱い」という欠点があるのに、それを無視したこと。
2つ。他人よりちょっと長い時間努力しただけで、結果を出せると自惚れたこと。
3つ。自分には才能があると勘違いしたこと。
特に「欠点に気づいていながら、それを治せる可能性すら考えずに逃げた」「努力の中身ではなく時間というガワで満足した」この2点はひどいものでした。これでは結果を出そうとしているのではなく、結果が出せないことに怯えているだけです。結果を出そうというなら、もっと手段や方法を考え、その上で自分の欠点から逃げないようにすべきだったのでしょうね。

今も「結果の伴わない努力は時間と労力の無駄」という信条自体は変わりません。ただその理由については、だいぶ変わったように思います。
人間としてもだいぶ変わりました。というか腐りました。そろそろ発酵食品になれそう。あと長えよ。
おわり