優越する六十分の一スケール

静かな朝だった。
何とも知らぬ野鳥の囀り。階下から音漏れするテレビ番組。微かに聴こえてくるはずの、自動車のエンジン音。全ての生活音がない、自室での朝だった。

時間を見る。壁時計は七時丁度を指している。いや、秒針は止まっているので、額面通りに考えて良いものかは怪しい。十中八九、それよりも遅い時間であろう。八時までには身支度を整え、家を出なければならない。

 

居間に出る。ここからが、この世で最も煩わしく、そして最も時の流れが遅い時間である。

呆れ果てた妻の顔。何時ぞやに見た能面よりも無機的な、女の顔。今日は朝練が無いと言っていた息子と娘。皆無機物。表情の変化こそあれ、その本質は陶器か何かのように、無垢で、微動だにせず、そして無関心である。私も焦りや謝罪といった念を、出来るだけそう見えるようにと顔面に貼り付けながら、結局はらしく在ることに努めるほかない。信頼とは、気がつくと損なわれているものだ。

時間はといえば、七時三十六分であった。テレビ番組は、やはりあったのだ。余裕は無いが何もできぬわけでは無い。そういう時間であった。安堵した。

 

冷めたトーストを珈琲で流し込む。低品質な珈琲は、味わおうという心の機微を生み出さない。喉から鼻を通り抜けて行く匂いも、直ぐに後悔へ変わる。こうなればただの黒く濁った水である。
次には髭を剃り、顔を洗い、歯を磨く。だいぶ鰓の張った顔だから、それなり気をつけねばならない。下手をすれば傷になる。この歳にもなると傷の治りも遅いし、一々沁みるのも何処と無く癪に触る。

とうに縒れたシャツとスラックスを身に纏い、これまた皺の深いネクタイを緩く結ぶ。新しいものを卸そうにも、どうにも選り好みしてしまうのは悪い性分だ。シャツをはみ出させて格好付けていた学生の時分と、そう大きな差はないのだろうが。

鞄を掴む。指に草臥れた合皮の欠片が触れる。これも買わなければ。最悪安物でも構わない。次の休みは何時だっただろう。前回の休日は親類に呼び出されて身動きが取れなかった記憶がある。

「いってきます」念押しの条件反射

 

「ただいま」